一個人として、QOLとADLの関係について考えること

ADL(activities of daily living:日常生活動作)とは、

「人間が生活を営むときに不可欠な動作」

というような意味ですよね?

不可欠な動作とは?

でも、私たち一般の素人考えで見ると、生活を営む上で不可欠な動作……それって、

「今できるすべての動作」

って思いませんか?

言い換えれば、五体満足の健常者ができる動作はすべて不可欠な動作なのであって、どれ一つとっても、自分が生活を営む上で

「この動作は必要ないな」

なんて、そんなことあるわけがないですよね?

ADL(日常生活動作)とは

ADLの評価基準として一般的なものとしてFIM(Functional Independence Measure)がありますが、これを例に取ると、そこでは日常生活動作というのは下のように分類されています。

運動項目:

①セルフケア=食事、整容、清拭、更衣(上半身)、更衣(下半身)、トイレ
②移乗=ベッド(車椅子)、トイレ、浴槽
③排せつ=排尿、排便
④移動=歩行(車椅子)、階段

認知項目:

①コミュニケーション=理解(聴覚・視覚)、表出(音声・非音声)
②社会的認知=社会的交流、問題解決、記憶

でも、うがった見方をすれば、ここに挙げられている「日常生活動作」というのは要するに、病院や介護施設において本来なら自分でやってほしいような行為と、その行為を自力でするのに必要な動作を挙げているだけじゃない?

……というふうにも見えますよね?

IADL(手段的日常生活動作)とは

手段的日常生活動作=IADL(Instrumental Activities of Daily Living)とは、ADLより高次の生活上の行為遂行力のことです。

たとえば電話を使えるか、家事ができるか、金銭管理ができるかといったことです。

言わずもがなですが、これも別に

「これだけ出来れば十分」

という、私たちにとっての基準ではないですよね?

もちろん、医療従事者の方からすれば当然このような基準も必要であろうことは理解できます。別にこれは一般の健常者に当てはめるために作成されている基準でもないし、私は別に、そういうお仕事をしている人に文句を言いたいわけではないのですが……。

しかし、たとえば私という一人の人間が、当事者としての一個人という視点で見ると、このADLとかIADLというのは、

「人間が生活を営むときに不可欠な動作」

の全部ではないです。

QOLとADL、IADLの関係

医療や介護といったサービスを提供する側の視点で言えば、もちろん、ADLやIADLというのは、患者さんのQOLの前提を決定づけてしまう要因と理解することができます。

でも、私は今そういう話をしたいのではありません。

私自身とか、一個人の立場でQOLというものを考えようとするとですね。

当たり前かもしれませんけど、ぜんぜん違うふうに見える……。

たとえばですね。

私は最近スマホが壊れたので、今度はiPhoneにしようと思って買い替えたんですよ。

ところが、最初の設定がわけ分かんないですね。機種変更に際して、実際には何と何の設定をしなければならないのかとか、特に今までアンドロイドだったのでiPhoneになるとどこがどう違うのかとか……店員さんに手伝ってもらって(というか、ほとんど店員さんにやってもらって)何とか最低限のことは済ませてはみたけれど、まだほとんど何の機能も使いこなせていないわけです。

でもこういうの、

「ぜんぜん分からない~だれかやって~」

って丸投げしちゃう人もいると思いますけど、そういう態度ってどうなの?

……とか、思うわけです。

自分のスマホの設定くらい自分でやる。

使いたい機能を自分で調べて使いこなせるようにする。

これ、

「手段的日常生活動作」

でしょう?

たとえば、初めて出かけて行った場所で、すぐに他人に道案内を頼むんじゃなくて、自分でできるだけ調べてみるとか。

これ、ある意味IADLでしょ?

でも逆に、せっかくの旅行なんだから地元の人や、他の旅行者の方にも積極的に声をかけて、コミュニケーションを取ってみること……これもIADLでしょ?

あるいは、コンビニで書類をコピーする時や、自分で撮った写真をプリントしたいときにですね。よく分からないからって、初めから店員さんを呼んで

「もう~歳だからこういうのぜんぜん分かんない。やってあげて~?」

って悪びれずに仰る年配の方。初めから自分でやる気が一切ない。まず自分でやれ!

……って思うことありませんか?

まあ、たとえばこういうことです。

自分でいろいろやってみて、どうしても他人の手を借りないと不可能なこと……それはもちろんだれだってあります。

でも、その場合でも、まず自分で手を尽くしてみるとか、それでどうしようもないなら素直に人の手を借りる。それにしても、快く他人に協力してもらえるような態度や言葉遣いや、礼儀みたいなこと?

……それ自体がすでに手段的日常生活動作だと思うんですけどね。

私はもちろん、まだ高齢者というほど歳とってないので、本当のところ高齢者の方の本音や、考え方ってもんが分かってるとは言えないのですが。

でも、実際に、別に高齢者だからとかじゃなくて、今の時点で自分にとって外せない「日常生活動作」ってもんがあるだろうと。

そういうのを具体的に自覚しようとする意識を持ちたい。それに、本当に医療や介護を受ける段階になってから考えるのではなくて、むしろ、私たち中高年世代は、自分がこれからもっと年齢を重ねていった場合に、

「自分でできる必要があること」

を今から意識しておくべきじゃないかと考えます。そして、それを、何歳になってもできる限りずっと行い続けることができる自分でいるために、

「今からできることはなんだろう」

……という視点で、自分の生活習慣なり、健康なり、また経済面での準備とか人間関係の構築とか、そういった幅広い面も含めて、意識的に準備したり、予防的な行動を続けたりすること。

こういうのが、私たち一個人という立場で考えるべき、QOLであり、ADL、IADL……ってもんなんじゃないかなあと、思うところでございます。

ADLの低下は「QOLの低下」そのものではない

逆に、自分自身のQOLというものを

「生活の質」

というより、もう少し大げさに

「生命の質」
「人生の質」

というように考えて見た時には、こういうふうにも考えられます。

そもそも、たとえば私なら私、あなたならあなた、それぞれの個人が、自分の人生の中で、人生を通して

「実現したいこと」

とか、あるいは

「ずっと続けたいこと」

というのがあると思うのですよ。自分が本音で、自分の人生の中でこれだけは絶対に大事だと思っているようなこと。

それは、特定のだれか大切な人と共有する時間だったりするかもしれないし、ずっと続けてきた仕事や趣味の一つかもしれないし、いつか絶対に達成したいと考え続けてきた夢や憧れかもしれません。

その場合、その事柄に直結する「動作」、そしてそれをするために絶対に不可欠な「身体機能」、それこそ自分にとって最も大事なものです。

極端に言えば、

「それさえできるなら、後はどうなってもかまわない」

というくらいに、惚れ込んでいるもの。

そういうものがもしあるなら、それをし続けることが自分のQOL(人生の質)をほぼ決定づける条件になるでしょう。

ある意味、それさえずっと実現できるなら、それさえ大切にし続けられるなら、一般に言うところの

①セルフケア=食事、整容、清拭、更衣(上半身)、更衣(下半身)、トイレ
②移乗=ベッド(車椅子)、トイレ、浴槽
③排せつ=排尿、排便
④移動=歩行(車椅子)、階段

とか、少なくとも自分自身にとっては、ある意味どうでもいいことですよね?

そりゃ、支障なく出来るに越したことはないんですけど、でも、それって、まあ

「日常生活において基本的に大切なこと」

ではあるけど、

「自分の人生にとって、不可欠なもの」

として見た場合には優先順位が違ってくるのです。

だから、診療上の基準や対応のことではなくて、あくまで自分という一個人が、自分自身のQOLを考える場合には、必ずしもADL、IADLはQOLを決定づける絶対的な条件でもないんです。

QOLにおいて、当事者として重要なことは、そもそも私やあなたという一個人が、自分の人生について

「何を大事にしようとしているのか」

ということで、自分の人生を

「どのように意味付けようとしているのか」

ということです。

人間が生きている意味というのは、食べ、飲み、排泄し、電話や買い物をし……というよりもっと幅広く存在するでしょう。

特に人間特有の行為「思う、考える、読む、書く、描く、見る、聞く」……こういった機能は本来それのみで独立した価値を持ち、人間に喜びや快感その他の有益な感覚、感情、それに幸福をもたらすことができるはずです。

私たちはむしろ、このような観点から自らの「クオリティ・オブ・ライフ」を見つめていくべきなんじゃないか、と感じるのです。